| HOME | > FCC創立の想い |
地元の進学校に入ったものの、大学に行く4年間が無駄に思え、高校を卒業するとすぐに家(大分)で牧場の第一歩を踏み出しました。 19歳の夏、日本一の町村牧場(北海道・江別市)を訪れ、憧れの85歳の牧場主から牧場経営の基本を教わりました。 町村氏は、1906年から10年間アメリカで牧場経営を学んだ方で、話を聞いて、私もアメリカで本格的に牧場の勉強をしようと決心をしました。 当時の外国は、一般庶民には遠い夢の夢、しかも私にはお金はない、英語は出来ない、アメリカのどこに行けばいいのかも分からない・・・。 でもアメリカに行かないと私の将来はない、私の思いは募る一方でした。 ある日、何気なく見た雑誌で、国が農業青年を2年間アメリカに派遣する制度を作ったことを知り、必死に英語を勉強して合格し、1970年21歳の時に渡米することができました。 西部の開拓牧場での研修が主体でしたが、ネブラスカ大学で畜産学、アイダホのポテト農家、大陸横断旅行、等々多くを見聞し、体験し、非常に充実した2年間でした。 しかし、私は、いくつかの事情で牧場を潔く諦めました。 ■英会話の世界へ 牧場のことしか出来ない私が、他の仕事で成功するには、実力主義の会社で勝負するしかないと思い、固定給も保険も何もない完全歩合給の米国系の英会話の会社で働くことにしました。 当時の英会話はまだ教室は少なく、特に地方ではカセット教材を使っての自宅学習が中心でした。その頃、私の同級生の月給は3万円位でしたが、約20万円もする教材セットをセールスする大変ハードな仕事でした。 会社に行くと、私がアメリカ帰りだということで、先輩営業マンから村八分的な扱いを受け、誰も見向きもしなかった農村青年にセールスをする指示が出ました。何も分からない私は、言われるままに農村青年にセールスに出向くのですが、誰も買ってくれませんでした。 しかし、売れなければ生活ができません。私は、どうしたら農村青年が20万円もの教材セットを買ってくれるかを必死になって研究し、一週間後には農村青年から契約を頂くことができるようになりました。 村八分にされたお陰で、不可能だと思われていた農村青年へのセールスに成功し、高い実績を出し、会社から評価され、高待遇を得ることができました。 いつの間にか私は自信過剰になり、商店街を歩く時は、いつも真ん中を胸を張って歩くようになっていました。 ■虚業に気づき、独立を決意 ある日、商店街をいつものように歩いていると、向こうから私から教材を買った人が歩いて来るのが分かりました。いつもは大きな声で挨拶をしていたのに、私は瞬間的にお店に飛び込み隠れてしまったのです。 その時、私は自分のしている仕事が教育とは名ばかりの虚業であることに気づいたのです。こんな仕事をする為に、アメリカに行ったのではない、牧場を諦めたのではない!もっと誇りの持てる仕事をしたい!・・・・。数ヶ月間、無気力状態が続きました。 ある日、町村牧場と西部の開拓牧場の二人の老牧場主のことを思い出したのです。町村氏は、土創りに長い年月をかけて日本一の牧場主になった方で、西部の老人はヨーロッパからアメリカ西部に移民し、苦難の末、州を代表する牧場主になった方です。 私は、二人のように人生を賭けることのできる仕事をすることが大切だと思うようになりました。 そうなると、答えはもう自分で学校を創るしかない。英語教育の専門家ではない私は、英語を習う人の気持ちが分かる学校を創る決心をしました。 |
| ■無謀なFCC創立 高待遇だった会社をキッパリと辞め、カバンに学校創りの夢を詰めて意気揚々と大分を発ちました。 しかし、それもつかの間、博多駅に着き、駅前に出た瞬間、「失敗したぁ!」と思いました。駅前に並ぶビル群は大分と違って大都会を思わせ、歩道を足早に歩く人達からは冷たさを感じ、しかも駅周辺には有名校がいくつもある、私一人で果たしてこの福岡でやっていけるのだろうか、博多駅を降り立って、初めて無謀であることに気づいたのです。 しかし、やるしかない! まず福岡に根付いた学校を創る為に、「福岡コミュニケーションセンター(略・FCC)」という学校名を付けました。しかし、受付も講師もおらず、実績も信用も知名度も何もかもゼロ、電話帳にも載っていない、本当にないものづくしの状態での船出でした。もし私が、学校運営に必要な事柄を事前に勉強していたら、FCCは誕生しなかったと思います。 かつて1970年にアメリカに行った時、最初にアメリカに行くという結論を出したから こそ実現したと思います。渡航費用・英語力・滞在先、等々の条件が揃うのを待っていたら、多分実現しなかったと思います。アメリカ行きは、試験に通った後は、国が敷いたレールに乗れば良かったのですが、FCCは全てを自力で、しかも大手を相手の厳しい競争世界の中で生き抜いて行かなければなりません。無謀に二乗三乗がつくぐらいの状態でのFCCの創立だったのです。 ■えッ ここが英会話学校!? まず多くの人にFCCを知ってもらうことが最優先、広告を打つ予算などありませんから、創立の熱い思いを書いたチラシを持って、隣のビルから徒歩1時間以内にある会社を、博多区、南区、中央区、東区と軒並みに飛び込み訪問を続けました。大学生のアパートにも行きました。 その時にできたノックダコが、20年以上経った今も右手の指に戦禍として残っています。やがて反応が出て、一人二人とFCCに説明を受けにやって来られるようになりました。 そんな人達が、ドアを開けた瞬間に出てきた言葉が、「えッ ここが英会話学校・・・・!?」だったのです。 福岡コミュニケーションセンターという学校名から、笑顔の素敵な受付嬢がいて、外国人講師達の生の英語が飛び交う、非日常的な空間をイメージしていたのです。 ところが、あまりの落差の大きさに驚き、自然に出た言葉だったのです。私の心の奥までズシリと突き刺さる強烈な言葉でした。 当然のように、FCCに入校する人は皆無に近く、私が相手の立場でもFCCには入らなかっただろうと思えるくらい、創立当初のFCCには、何もなかったのです。それでも、ごく少数でしたが、FCCを選んで下さる方がいて、そのような方達は、本当に勇気があったと思います。 ■生徒が8名だった最初のクリスマスパーティ 1984年9月にFCCを創立、その年の年末に生徒8名(知り合いのスクールから来てもらっていた受付と講師と私も参加)でクリスマスパーティを開きました。場所は教室で、参加した生徒は社会人と大学生と中学生と幅広く、コーラにみかんにポテトチップスなどを飲み食べしながら、クリスマスソングを歌い、ゲームなどで盛り上がりました。記念すべきFCC最初のパーティです。■創立と同時にTOEICを採用 FCC創立と同時に、FCCでTOEIC模試(過去の公式テスト)を受けることができるようにしました。その為に東京のTOEIC本部に行きました。その夜、担当者から夕食をご馳走になり、担当者は、英検を抜いてTOEICを日本のメジャーにしたい、その為に全国の主な企業と大学などを回らなければならない等々、熱っぽく話して下さり、私も負けずにFCCの夢を話しました。 TOEICが、今日の地位を築いた陰には、その担当者の並々ならぬ努力があったことは言うまでもありません。FCCは、TOEICを採用した全国の英会話学校の中の最も古い一校で、当時のパンフレットに、FCCが載っています。 ■最初の講師は、有名人 勇気ある生徒が一人二人と入校してくるようになりましたから、クラスを開かなければなりません。知り合いのスクールから半年間だけ、受付の人と講師に週に一日3時間だけ来てもらいクラスを始めることにしました。しかし、自前の講師でクラスを始めなければ、前に進みません。まず教務の責任者として荒牧がFCCの一員になり、早速、講師の募集をしました。 応募者の中に一人、とても魅力的な米国人女性がいました。 まだ講師の採用基準などありませんでしたが、その女性は講師としての実力も間違いなさそうなので即採用にしました。 しかし、FCCの受講生は大学生が多いことを知り、その講師はその場で断わってきました。理由を聞くと、「私はテレビの深夜番組の司会者で、特に学生の間では有名人で、人気があります。私の人気で入校してもらいたくないからです」。 荒牧は、「あなたがテレビに出ていることは全く知らなかったが、あなたが英語講師として素晴らしいと判断したのです。是非、FCCの受講生に教えて欲しいのです!」。 荒牧の熱意が伝わり、米国人女性はFCCで働くことになりました。 思った通りの素晴らしい講師でした。受講生達は、クラスの日が待ち遠しくて、熱心に学び、力をつけました。実力と熱意を持ち、人間的にも魅力ある講師の存在が、いかに大切であるかを学ぶことができました。 ■県立高校の英語教師が入校 FCCの学校運営が軌道に乗るまでに、15年という気の長くなるような時間を要しましたが、その間、荒牧は、一心になってクラスの改善と講師の採用基準等々、多くの試行錯誤を繰り返しながら、懸命に取り組みました。 その努力が実って創立して5〜6年経った頃には、どこにも負けないだけの内容が出来たと思います。そんな頃、県立高校の英語教師が、FCCを高く評価して下さり、入校されました。嬉しいやら驚くやら、ビックリしました。現役の英語教師からお墨付きをもらったのです。 FCCの学校創りの方向性に間違いのないことを確認することができました。その後も、現役の英語教師の入校が、今日までずっと続いております。 ■「まだ、手作業でやるべし!」 生徒が徐々に増えてきたので、私も荒牧もパソコン操作は出来ないのに、生徒のデータ管理などを、人並みにパソコンでしたいと思うようになりました。そのことを早朝勉強会の席で話したら、Y社の社長が、丁度パソコンを入れ替える時期だから、一台タダであげるよ、と言って下さいました。 早速、Y社の担当者がFCCに来られ、生徒数や入力に必要な項目などの確認をされ、言われた言葉が「まだパソコンは必要ない、手作業でやるべし!」、「今後、生徒が増えても、ぎりぎりまで手作業ですること、パソコンを入れても有効活用をしている会社は非常に少ない」でした。 FCCがパソコンを入れたのは、それから7・8年も経ってからのことでした。 ■10年目に教室を拡張 いくら入校者が少ないと言っても、10年も経つと1教室では、どんなにやりくりをしても、もう限界です。移転費用を何とか工面して、思い切って現在地に移転しました。3教室と狭いながらロビーもできて、どうにか最低限の英会話学校としての形ができました。 それから数年後、隣接する事務所が退去してくれたので、そこを借りて現在の6教室体制になりました。 受講生の皆さんには、ギリギリまで一教室で我慢をしてもらい、見栄を張らずに、内容の充実に力を注ぎ続け、英会話学校としての実力を蓄えることができた10年間だったと思います。 ■F銀行からの信用 FCCの内容は、年々良くなっているのに、入校者は増えない、その悪循環が15年も続きましたから、借金がかなり増えました。利益の上がらないFCCに融資をしてくれる銀行などありませんから、金利の高いローン会社からの借り入れを私個人で行ない、それを学校の運営資金に充てるしかありませんでした。 教室を移転して間もない頃、F銀行の行員が「お金を借りませんか?」と来られたのです。私はその行員を大歓迎しました。しかし、FCCの経営状態を正直に話したら、行員は何も言わずにスーッと帰ってしまいました。 翌年、またその行員が、「その後、どうですか?」と言って来られたのです。私はまた正直にFCCの状態を話し、同時にFCCの方針と夢を話しました。でもダメでした。 3年目、突然その行員がやって来て、今度はいきなり「お金を貸しますよ」と言ってくれたのです。 FCCはまだ厳しい状態であったにも関わらず、F銀行が私たちを信用してくれたのです。F銀行が融資をしてくれたら、他の2行も融資をしてくれ、3行からの借入金でローン会社に全てを返済することができました。経済的にも、精神的にも随分楽になりました。 ■「英語日記」の誕生 私達の喜びは、何と言っても生徒の皆さんが英語力をつけて、「英語を話せるようになったぞ!」と、喜びに満ちた生き生きとした笑顔を見ることです。そのような表情を見ると、もっと応援したくなります。 その為には、週に2〜3時間のクラスだけでは不十分です。そこで講師とスタッフが、受講生に別途の経済的な負担をかけることなく英語力がつくものはないかと何度も話し合いを行ないました。 その結果、講師が添削の責任を持つということで誕生したのが、無料の添削システム「英語日記」(週一回提出)です。誕生して10数年経ち、今ではFCC名物と言われています。 「英語日記」は、添削の労を惜しまない講師の存在があって、初めて成り立ちます。 ■「馬鹿な英会話学校」で受講生が急増 ある朝、早朝勉強会でK氏に出会いました。K氏はとてもユニークな方で、K氏の自己紹介を聞いた瞬間、私は、「この人に、FCCのパンフレットを創ってもらったら、きっと面白いものができるはずだ」と思い、早速、K氏に依頼しました。 数週間後、K氏から届いたパンフレットを見てビックリ、「馬鹿な英会話学校」という文字がいきなり目に飛び込んできたのです。FCCは、どこよりも知的な仕事をしているという自負があり、「馬鹿」という言葉には強い抵抗を感じました。しかし、「全てをお任せします」と言った手前、そう簡単には断れません。なぜK氏は「馬鹿な英会話学校」という表現をしたのだろうか、考えました。 そして答えが出ました。 これは、「バカ正直の馬鹿」に違いないと納得しました。 このパンフレットで、生徒が増え、FCCは長かった真っ暗闇のトンネルから抜け出すことが出来ました。その後もK氏にはお世話になり、FCCの業績は順調に推移することができました。 |
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こそ実現したと思います。渡航費用・英語力・滞在先、等々の条件が揃うのを待っていたら、多分実現しなかったと思います。
1984年9月にFCCを創立、その年の年末に生徒8名(知り合いのスクールから来てもらっていた受付と講師と私も参加)でクリスマスパーティを開きました。場所は教室で、参加した生徒は社会人と大学生と中学生と幅広く、コーラにみかんにポテトチップスなどを飲み食べしながら、クリスマスソングを歌い、ゲームなどで盛り上がりました。記念すべきFCC最初のパーティです。

