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旅行記

「レアもの」旅行記:イタリア編その2

2016.05.27

こんにちは、阿津坂です。

今回からは、イタリアの都市「ラヴェンナ」のお話。

「ラヴェンナ」って……?と思われる方も多いのでは?

私も行くまでは、ぜんぜん聞いたこともなかったし、行ってもちゃんとよく時代背景をわかっていずに行ったので、後からいろいろ知って「もうちょっとちゃんと知っておけば、もっと深く味わえたかも……」と思った場所でした。

世界史的には、もしくはローマ帝国史上では割と重要な地位を占めている場所です。

ですので、ちょっとマニアックな歴史背景を。かなり長いので、興味のない方はすっ飛ばして、次回の観光情報をお待ち下さい!

 

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の西方領の首都だった都市、ラヴェンナ[Ravenna]。

まずは位置情報から。

 

◆ローマ帝国のざっとしたおさらい

初めはイタリア半島の1地方都市でしかなかったローマ。しかし、次々に各地を侵略し、拡大していった。一定の条件(兵役など)を満たせば市民権を与えるという方式で、異民族や異文化を取り込んでいったのだ。

ごく初期の頃は王政だったが、暴政の結果から共和制に。つまり元老院のメンバーによる話し合いに民会で示される民意が加わって、政治の取り決めが行われていった。当時を象徴する言葉として「SPQR」というものがある。これは「Senatus Populusque Romanus」の略で、「元老院とローマ市民」という意味だ。公共の建物や軍旗などにもこの「SPQR」の文字が用いられ、ローマの象徴となっていった。今でもローマ市の紋章に使われ、ローマ市内のあちこちで見かけることができる。

ところが、領土が拡大していくと、元老院のまだるっこしい統治が行き詰まりを見せ始める。それを見抜き、圧倒的な軍人としての成功を背景に、徐々に改革を行っていったのが、カエサル(ガイウス・ユリウス・カエサル)だ。当時は、軍隊の社会における役割は非常に大きく、貴族は指揮官として戦場に赴き戦闘を指揮し、市民(男性)は市民に課せられた義務として兵役に就いていた。また、当時の戦争は歩兵同士の肉弾戦が中心なので、歩兵(つまり市民)の人心掌握術が指揮官に大いに求められた。ゆえに、戦果を果たせるということは、市民からの支持を得ているということであり、属州が増えるということは税収の増加を意味するので、元老院での発言も重きを増した。

ただ、カエサルの凄いところは、軍事的な手腕だけでなく、政治的な手腕も冴えていたところだ。ちなみに、カエサルの豪胆な性格と愛嬌、私利私欲に走らない性格を如実に表すエピソードとして、当時の貴族の妻でカエサルが手を出していない女性はいないと言われたほどで、愛人が多々いたカエサルだが、別れた後でも愛人から一切の恨みを買ったことがない、のだそう。借金も膨大な額を抱えていたが、本人は金に無頓着でわりと質素な生活をしていたそうだ。では、金は何に使っていたかというと、前述の愛人への宝石などの高額な贈り物であったり、公共事業や庶民の娯楽に使われた。当時、公共事業や娯楽(剣闘士の戦いなども含まれる)は貴族が私財を投入するのが当たり前で、そうやって市民の人気を勝ち獲ていた。

しかしながら、王政時代の反動から独裁をひどく嫌った元老院は、カエサルの華々しい活躍を褒め称えながらも敬遠していた(農地法の改革なども、農地を広大に持つ元老院の貴族たちの不満を招いた)。結局、元老院は長いガリア戦争で大勝利を収めて帰ってきたカエサルを恐れ、軍を解散させることを求めたが、カエサルはこれを拒否。有名な「賽は投げられた」(Alea Iacta Est)の言葉とともに(かどうかは、本当は定かではない)、川を渡る前には武装を解かなければいけないルビコン川を軍とともに渡り、ローマは内戦に突入した。

名将ポンペイウスと元老院の軍は、当初は有利に進めたものの、すぐにカエサル側が盛り返し、敗色が濃くなっていった。ポンペイウスはエジプトに逃走したものの、エジプトの王プトレマイオス13世の側近に殺害された。ポンペイウスを追ってエジプトに向かったカエサルは、プトレマイオス13世と彼の姉で妻であり共同統治者のクレオパトラ7世(絶世の美女として名高い、あの「クレオパトラ」といえば、この人)の争いでクレオパトラ側に付き、勝利を収めエジプトを平定。北アフリカやヒスパニア(スペイン半島)に逃走していた残りの元老院のメンバーも打ち破り、ローマで終身独裁官に就任した(独裁官の職自体は以前からあり、国家の有事の際に即座に決定を下せるように、強力な権限を与えられた政務官を指す。非常事態のみの限定的なものであったが、終身でなったのはカエサルが初めて)。

しかし、カエサルの独裁を恐れた元老院の若いメンバーに、結局は暗殺されてしまった。後を継いだオクタウィアヌスは、カエサルの死後に繰り広げられた権力争いの戦に勝ち抜いて実力を示し、謙遜を示して独裁を恐れる元老院を巧みに出しぬき、初の皇帝という地位を手に入れる。しかし、オクタウィアヌスは「皇帝」という地位を創設したわけではなく、あくまで政治・軍事の最高位の政務官を兼任している身にすぎない、という立場を取り、「SPQR(元老院とローマ市民)」の精神は維持されている、という態を貫いた(この後も元老院の存続はずっと続く)。だが、結局は権力を一手に引き受けていたわけだ。なので、彼の正式な称号は各政務官の名前や尊称(例えば「インペラトル(軍の最高司令官を指す:英語のエンペラー[Emperor]はここから来ている)」や「アウグストゥス(尊厳者)」など)が、ずらずらっと続くものだった。

皇帝に権力を一元化させたことで、国内情勢が安定し、命令系統が明確化されたところで、ローマ帝国は領土をさらに拡大させていった。初の属州出身の皇帝トラヤヌス帝(在位:98年-117年)の時代には、北はイギリス、南はエジプト、西はイベリア半島、東はメソポタミア(現在のイラク東部)まで広がる大帝国となった。しかし広すぎる領土は、統治の困難さも生む。276年にディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)が分割統治を始めたが、最終的には395年にテオドシウス1世(在位:379年-395年)が帝国を正式に東西に分け、東を長男アルカディウスに、西を次男ホノリウスに統治させたが、これがローマ帝国の分裂の決定打となった。

東ローマ帝国は、ギリシャを含むバルカン半島の、現在のセルビアやモンテネグロ(バルカン半島)辺り以東から、トルコ、シリア、北部エジプトや現在のリビアの半分を含む範囲。西ローマ帝国の領土は、イタリア本土、スペイン、フランス、イギリスなどの欧州部分と北アフリカを含んでいた。

Theodosius_I's_empireGeuiwogbil at en.wikipedia.org CC

赤が西ローマ帝国 紫が東ローマ帝国・白線は現在の国境 <br> 西ローマ帝国がイタリア本土を含んでいるので有利なように見えるが、実際は東ローマ帝国がトルコからシリア、エジプトにわたる穀倉地帯を得ており、はるかに豊かだったのだ。さらに西ローマ帝国に追い打ちをかけたのは、北部からの異民族(蛮族とも表記される)の侵入だ。北アジアの遊牧騎馬民族であるフン族が西へ移動を始めると、東欧のあたりに住んでいたバンダル族(vandalism:芸術や公共物などの破壊行為の語源となった)やゴート族(ゴシック:Gothicやゴス:Goth[ゴスロリなどのゴス]の語源)が追われてゲルマン民族大移動を引き起こし、西ローマ帝国内へと続々と侵入。国内情勢を不安定化させ、ついに、西ローマ帝国の滅亡を招いた(476年)。 ーー

というのが、西ローマ帝国と東ローマ帝国のざっとした流れです(かなり、カエサル中心ではありましたが)。東西に分裂したローマ帝国時代の主要地の1つ、特にイタリア本土での主要地が、ラヴェンナでした。西ローマ帝国時代後半の首都であり、西ローマ帝国が東ゴート族のテオドリクスによって滅亡した後は、イタリア半島からバルカン半島の一部までを治めた東ゴート王国の首都となり、その後ローマ帝国の再統一を進めるユスティニアヌス1世がイタリア半島を奪還すると、ラヴェンナは東ローマ帝国のイタリアでの中心地(総督領の首府)となりました。(東ローマ帝国もその後、モンゴル帝国の襲来などを受け、最終的にオスマン帝国により首都のコンスタンティノープルが陥落し、滅亡。1453年)

さて、これらの背景知識を元に、ラヴェンナ観光の最大の見どころである世界遺産「初期キリスト教建築物群」を訪れれば、きっと魅力倍増(???)と思います!

 

参考図書

・塩野七生『ローマ人の物語I ローマは一日にして成らず』

・塩野七生『ユリウス・カエサル ルビコン以前 ローマ人の物語IV』

・塩野七生『ユリウス・カエサル ルビコン以後 ローマ人の物語V』

・Wikipedia

 

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